無想会・沖縄同好会

沖縄同好会の稽古日程、無想会の身体操作を知ることができます!!

肩の上がる突き

無想会セミナー2023冬期

終始広背筋のかかりが甘いことを指摘されました。

 

後日、自分の突きの動画をスロー再生で見てみると、行きと帰りで肘の軌道が異なっていました。

帰りの軌道は、行きより肘の位置が高くなっていたのです。そしてその埋め合わせをするために、肩を上や後ろにずらして拳を元の位置に戻していました。

 

肩が前後あるいは上に動くということは、広背筋が緩んだということを意味します。言い換えれば肩・肩甲骨は固定されねばなりません。そして、当然ですが、上腕の長さは変わることがありません。

 

すると、肘の先端の一番薄いところが通るべき場所というのは、肩を中心とし上腕の長さを半径とした球の表面上なのではないか、と思います。

その球の表面より内や外に肘の先端が行ってしまえば、それは中心たる肩が動いた、すなわち広背筋が緩んだということだと言えるはずです。

事象を単純化正中線に帰着させる日本武道とは反対の方向に考えが進んでいるようで嫌なのですが、正中線を意識して考えれば、正中線と天地線に向けて肘の先端を目一杯引っ張り続ける、ということかもしれません。

 

そして、広背筋が脊椎に付着する都合上、腕もまた重力に真下に引かれる都合上、脊柱方向と重力方向の合成が起こり、肘の先端は球の表面を蛇行するのでしょうか。

 

胸元に拳を引いた状態から突きが始まりますが、行きは背面から肘の先端で地面をえぐるように・丹田のあたりをえぐるように、肘を落としながら突いて、帰りは、12to6の肘打ち下ろしの如くこれもまた地面をえぐるように・自分の丹田に肘を打つように練習します。

chatGPTにブログを書いてもらった、もう自分で書かないで良いかもしれない。「無想会で学んだ空手の歴史」

もう箇条書きでまとめるだけで、ブログ書かないでいいかもしれない。

 

以下、AIとの会話です。(※実験的に書いたので、自分の箇条書きのまとめ方は粗いです)

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筆者「以下のポイントをまとめて、面白い文章を作ってください

・空手の歴史について

・空手は琉球王国で生まれた。琉球王国は日本と明・清と交流があり、両国の武術が伝えられた。

・日本からは剣術が持ち込まれ、琉球の武士達の武術の土台は日本剣術であった。 ・そこに明・清で生まれた武術が持ち込まれた。

・日本の武術は、帯刀が前提であり、素手による打撃の必要性は薄かった。それゆえ素手で刀を持った相手を取り押さえる、または懐に入って組んで投げるというような柔術系の武術が発達した。ただし、それも刀の身体操作を素手の戦いに応用したものである。

・明の武術は、漢民族による武術で、彼らは農耕民族であったから、遊牧民族と異なりタンパク質の摂取量は少なく、体格は小さかった。また、獲物を狩ったり捌いたりする習慣もないので、帯刀をしていなかった。それゆえ体格と武器に依存しない打撃系の武術が発達した。こんにちの中国拳法に打撃技が圧倒的に多いのはこのためである。

・清の武術は、満州人による武術で、彼らは遊牧民族であったから、たんぱく質の摂取量が多く、体格が大きかった。また、帯刀の習慣があった。それゆえ、体格に依存できる組技系の武術が発達した。善撲営、モンゴル相撲はこの名残である。

琉球において、日本剣術の身体思想を会得した琉球の武士達は、明の武術から素手の打撃を学び、清の武術から組技を学び、そしてそれらを、自身の日本剣術の思想で換骨奪胎した。それが空手である。 ・結論として、地域差により生まれる民族の習慣の差異、その差異によって生まれる武術の差異、そして武術の重層的な伝播を、地理と歴史を踏まえながら考察することで空手の姿が明らかになった。」

 

chatGPT-3.5琉球王国、その小さな島々から生まれた一つの奇跡、それが空手である。その起源は琉球王国の交流にあった。日本と明・清の武術がこの土地に伝えられ、琉球の武士たちは日本剣術を土台に、明・清の武術を取り入れた。異なる文化の結晶が生まれる瞬間だった。

日本の武術は帯刀を前提とし、素手の打撃はあまり必要とされなかった。しかし、琉球の武士たちは素手で刀を持った相手を取り押さえ、懐に入って組んで投げるといった柔術系の武術を発展させた。彼らは日本剣術の身体操作を素手の戦いに応用したのである。

明の武術は漢民族によるものであり、彼らは農耕民族でした。タンパク質の摂取量は少なく、体格は小さかったが、獲物の狩猟や解体の習慣はありませんでした。そのため、体格や武器に依存しない打撃系の武術が発展したのです。中国拳法には打撃技が豊富に取り入れられているのもそのためです。

一方、清の武術は満州人によるもので、彼らは遊牧民族でした。タンパク質の摂取量は多く、体格は大きかったし、帯刀の習慣もありました。そのため、体格に頼った組技系の武術が発展したのです。善撲営やモンゴル相撲はその名残です。

そして琉球において、日本剣術の身体思想を会得した琉球の武士たちは、明の武術から素手の打撃を学び、清の武術から組技を学びました。そして彼らは、自身の日本剣術の思想と融合させることで、まったく新しい武術を創り出しました。それが空手なのです。

空手は地域差から生まれる民族の習慣の差異、異なる武術の融合によって形作られました。地理と歴史を踏まえ、空手の奥深さを考察することで、その真の姿が明らかになったのです。琉球の風土が育んだ空手は、ただの武術ではなく、文化の象徴として世界に広まっていくのです。」

 

筆者「この文を英訳してください」

 

chatGPT-3.5「The small islands of the Ryukyu Kingdom gave birth to a remarkable phenomenon known as Karate. Its origins can be traced back to the exchanges within the Ryukyu Kingdom. Martial arts from Japan, Ming, and Qing were transmitted to this land, where Ryukyuan warriors incorporated elements of Japanese swordsmanship and techniques from Ming and Qing martial arts. It was a pivotal moment when different cultures converged.

Japanese martial arts were primarily focused on swordsmanship, with less emphasis on bare-handed strikes. However, the Ryukyuan warriors developed a form of martial arts that involved restraining opponents wielding swords barehandedly and utilizing grappling techniques in close combat. They applied the principles of Japanese swordsmanship to unarmed combat.

Ming martial arts, developed by the Han people, were rooted in an agrarian society. Their protein intake was limited, resulting in smaller physiques, and they did not have the hunting and butchering practices. Consequently, a striking-based martial art that did not rely on physique or weapons flourished. This explains the prevalence of striking techniques in Chinese martial arts.

On the other hand, Qing martial arts, developed by the Manchu people, were influenced by their nomadic lifestyle. With a higher protein intake and larger physiques, and a tradition of carrying weapons, their martial arts evolved to rely on grappling techniques. The remnants of this can be seen in disciplines like Zhanpuying and Mongolian wrestling.

In Ryukyu, the Ryukyuan warriors, who had acquired the principles of Japanese swordsmanship, learned bare-handed striking techniques from Ming martial arts and grappling techniques from Qing martial arts. By integrating these elements with their own Japanese swordsmanship philosophy, they created an entirely new martial art known as Karate.

Karate emerged from the regional differences in cultural customs and the fusion of diverse martial arts. By examining the geography and history, the true essence of Karate was unveiled. Nurtured by the Ryukyuan environment, Karate transcended mere martial art, becoming a symbol of culture that spread across the world.」

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凄いね!英語フォーラム問題解決!

受験で英作文そこそこの成績でしたが、AIが上手すぎてショックです。webライターって仕事楽になるのか、なくなるのかどっちだろう。

構造主義とは、無想会の理論とは、創造性とは、文化とは、すべての競技を貫く共通の運動とは

ムカデは中国語でも「百足」と書きます、英語でムカデは「Centipede」です。

 

「centi」は、1メートルの100等分を表す「センチ」であったり、100年の「century」だったりと、100を意味する単語です。

そして、「pede」は、ペダル(pedal)やペディキュア(pedicure)のように、脚にまつわる単語です。

 

「中華とヨーロッパで、ともにムカデのことを『100本の足』と表現している。これは人類に共通の認知の仕方があるに違いない!」

と幼き日のノーム・チョムスキー少年は考え、これが後に彼の「普遍文法」につながった、とされています。

(聞いた話なんで詳しくは知りませんが。)

 

「普遍文法」は、中国語だろうが英語だろうが、すべての言語に共通の法則がある、というものです。

 

このチョムスキー博士の逸話は、構造主義の好例だと思います。

 

構造主義は、「AとBがあるけど、なんでこんな違いがあるの?」という風に、視点を高くして観察し、現象が派生する法則を発見する方法、と私は理解しています。

 

さて、その構造主義のアプローチを人間の運動、特に武術とその地域差にはじめて持ち込んだのが新垣師範だと思います。

 

武術の専門用語(ex:チンクチ 縮地 倒木法...)を、重力や広背筋というような客観的な言葉で説明し、沖縄空手のみならず、中国武術の技法やマイクタイソンの広背筋をも観察し、広く人間の運動の本質に迫った最初の書物が「沖縄武道空手の極意その1」だと感じ、魅了されました。

 

「運動を生業にする人間で、ここまでアカデミックな考え方をする人がいるのか!」

 

と学園祭の準備をサボって図書館に隠れていた合間に感動したのを今でも覚えています。

 

自分はチョムスキー博士の話を、英語の先生の小話で、師範の本を大学の図書館でたまたま読みました。

 

チョムスキー博士の話を知っていなければ、師範の理論にそこまで惹かれなかったかもしれないし、大学に行かなければ師範の本にも出会っていなかったかもしれません。

 

優れたものを、優れたものだと認識するための下地を整える、という意味だけでも勉強しててよかったなあ、教養って大事だなあと思います。

 

とにかく幸運でした。

 

話が逸れましたが、師範の理論は、運動の根源を説明できると思っています。

 

例えば、「我々がおサルさんの時代からモノを掴むのが本能だから、突きも物をつかむ動作の派生・変形としてやったほうが一番自然なんだ」とか。

 

たしかに、赤ちゃんの指掴む反射なんかは有名です。

 

「そのモノを掴む動作も、哺乳類の4足歩行の時代の前脚の発展だから、チーターが前脚で地面をひっかく動作と一緒だ」

 

「蹴りも4足歩行と一緒、チーターが走るように、はしごを上るようにけりなさい」

と言われます。

 

といういように、一貫した理論のもと説明されます。

 

これによって、我々人間が歩くときに腕を前後に振る由来も、4足歩行の、ハイハイの名残なんだと説明できます。

 

ピッチングも同じです、はしごを上る動作を(ハイハイの動作を)、ボールに対して行っているだけです。

バレーのサーブ・スパイク、テニスのサーブ、やり投げ、すべて手首から先がちょっと違うだけで、やっていることは全部4足歩行です。

 

私は、「一つの原則を、自分の要求や制限に適うように分化発展させる能力」というのが世にいう「センス」や「クリエイティビティ:創造性」だと思っています。

そしてこれを鍛えるのが芸術や学問なんだとも。

 

例えば、五七五の短歌で、オリジナリティ・クリエイティビティを発揮したいからと言って「あばばばばばばばばば」なんて歌は詠めないんです。

 

「たしかに有史以来だれも詠んだことはないだろうが、単にセンス(=ルールの運用能力)がないだけだ」と言われてしまいます。

季語や語数というような制限はおろか、文法すら破綻しているからです。

 

上記をまとめると「上手さ」とは、原則活用の巧みさ・厳密さである、という感じになると思います。

 

ここで、空手の上手さ、即ち原理原則の活用の具合というのはどうなのでしょうか。

 

最初に参加したセミナーで感じたのですが、凄まじいのです。

「腰を回してはいけないのは聞いていたが、手首すらダメなのか..!」と驚愕したのを覚えています。

「これくらい、いいじゃん!」ってならないのは昔の武士は偉かったんだなあ、と今になって思います。

 

「すり足もダメ!摩擦でエネルギーが減る!」

「拳も握ったらダメ!指で加速できるんだから!」

「2拍子はダメ!地面をけって腰を回してなんて論外、足は地面と水平に、じゃないと脚動かすときに、踵→つま先と2拍子になるからダメ!」

「居着いたらダメ!足上げても居着くな!(波返し)」

 

と、私からすれば「こんぐらい、いいじゃん!」または「無理じゃん!」の連続でした。

しかし、昔の武士が求められていたもののキツさというのを垣間見ることができたのかもしれません。

 

上記のような本物の沖縄空手の、偏執さすら感じる厳密さ・巧みさが、無想会からは学べます。積み上げられたものの凄さ、アインシュタインの言う「巨人の肩」を体感できます。

 

師範の言っていた言葉に印象的なものがあります。

「空手は身体文化なんだ」と。

 

私は沖縄出身でありながら、空手にまったく興味がなく、むしろ劣ったものだと思っていました。

 

空手は子供向けの習い事、というのが、小学校・中学校で感じた空手の印象です。

 

「セイッ!www山突き!wwww」とかやって怒られました。

(沖縄は体育の時間に空手やる学校もあります)

 

しかし、これほどの深みを持つならば、身体文化と呼ぶにふさわしいと思います。

 

「この水準をほかの分野でも出したいなあ...?」という欲まで出てきます。

 

そのためにはそもそも自分が上手くならないといけないし、広報ももっとやらねばなりません、資金下さい。がんばります。

4スタンス理論について

4スタンス理論は筋肉のつながりの(沖縄空手で「スジ」と呼ばれる概念の)誤った理解だと思っています。

というのを話したところ、ご質問頂いたので以下に返信をまとめます。

そして終始4スタンス理論に関して私は批判的ですが、あくまで個人的意見です。

 

『自分はスジは、筋膜、またはアナトミートレインのことだと思っています。

 

通常筋肉を解剖図で見れば、それぞれ分離しているように描かれますが、実際に人体から摘出した際は薄く膜でつながっており、関節の作用等で別々の筋肉を同時に使ったりそうならなかったりというのが起こるそうです。


例えば、前屈は膝を曲げれば簡単なのは、膝を伸ばすと、足裏ーふくらはぎー太もも裏がつながり、膝を曲げればそのつながりが外れるからだとされていました。

 

そしてその筋膜のラインは12本あり、それぞれ役割が決まっています。


例えば、大胸筋ー腹筋ー四頭筋等の身体正面のラインは、驚いたときに体全体を委縮させるとか、転んだ時にプランクの姿勢で身を守るとか、4足歩行動物においては、自分の体重を支える抗重力筋とか、という役割がありました。

大きなエネルギーを出すのには向いていないが、重いもの(自重など)を支えるのが得意な筋肉郡です。

 

次に、人間の運動の仕方は、個人差などなくほとんど同じだと思うからです。
例えば、歩き方・走り方・物の投げ方は、現代のスポーツから古代の壁画に描かれる姿に至るまでほとんど同様です。(同じ体のつくりなんだから当然なんですけどね。)


特に上肢をつかってエネルギーを出そうとすれば、おのずと広背筋が使われ、投球・スパイク・サーブ・手裏剣投げ・突き・ゴルフスイングまで、すべて広背筋が使われる、懸垂のような動きの派生でなされます。
例外的に、砲丸投げだけは、球が重たいので、重いものを支えるのが得意な大胸筋あたりを使って、腕立て伏せのような動きでなされますが。

 

上記のように進化の過程で、筋肉にも役割というのが生まれたのだと思います。

 

 

4スタンス理論は、AタイプBタイプに応じて使う筋肉郡が違う、というのが昔読んだ本に書いてありました。


「なんとかタイプの人は、腹筋と四頭筋のラインでけりなさい」

 

との旨が記されていたのですが、腕立て伏せでボールを投げる・スクワットでボールをける、というのがおかしいように、上述の筋膜のラインの役割と人間の普遍的な運動に矛盾しているのです。

 

また、理論と言っておきながら、なぜA/B・1/2タイプに分かれるのか、なぜタイプごとに違う方法が必要なのかが全く示されないのです。すなわち非論理的な理論だと思いました。


1件だけ福岡の大学が実験を行っていて、剣道部の生徒30名ほどに4スタンス診断後、タイプ別指導をしたところパフォーマンスがよくなった、としていたのですが、AタイプにBタイプ向けの指導をする、4スタンス理論を用いず剣道指導者が指導し比較するという工程がありませんでした。


「アドバイスしたらAB関係なくうまくなるのでは?」という当然の疑問が抜けています。

まとめると現実に即しておらず、科学的根拠もないし、「理論」と名乗れるだけの要件を満たしていないのです。

 

コリや筋肉の萎縮で稼働が制限されているところに類型を無理に見出そうとしたのではないか、と思っています。

 

プラシーボ効果に加え、他人に自分の知らない一面を認知してもらえるのは快感ですから、科学的根拠がなくとも血液型診断やMBTIが流行ったのと同じ理屈で人気が出たのだと思います。

 

あとは、小学生のころ、コーチが導入したのですが、まったく効果を感じなかったし、私はイチロー選手のファンでしたのに、「君は松井かイチローか」のあたりで、松井選手よりと診断されたので嫌いでした。』

空手/唐手は柔術? 1800年末の新聞記事の考察

空手/唐手は打撃の武術、というイメージが強いですが、以下の5つの記事においては、打撃だけではなく柔術/組技の武術であるとの言及がされています。

 

最初の『大島筆記』はメジャーな出典ですが、後半はかなりマイナーな史料に触れています。加えて、新垣師範からご講義頂いた座学の内容も含まれておりますから、空手史マニア諸兄にもご満足頂けるかと思います、ぜひ最後までお読みいただければ幸いです。

 

「組合術~公相君」の記述

琉球を出た楷船(官船)が、四国は土佐藩、大島浦に漂着したとの記述がなされた、1762年の史料です。

 

・大島筆記 1762年

「先年組合術[良熈謂武備志載スル所ノ拳法トキコユ]ノ上手トテ、本唐ヨリ公相君[是ハ称美ノ号ナル由ナリ]弟子ヲ数々ツレ渡レリ。其ワザ左右ノ手ノ内、何分一ツハ乳ノ方ヲヲサヘ、片手ニテワザヲシ、扨足ヲヨクキカスル術也。甚痩タ弱々トシタル人テアリシガ、大力ノ者無理ニ取付タヲ、其侭倒シタル事ナト有シナリ。」

(赤字筆者)

「先年に中国から来た『公相君』(コウソンクン)なる組合術の上手な者が、扨足を使う武術で大柄な人間を投げた」との旨の記述があります。

*扨足は、足払いや足掛けの事

 

「弟子を多く引き連れて」との記載がありますから、たまたま乗り合わせた中国人、というより、清国から公的に派遣された集団とみることができます。とういのも、当時は海賊が平定されておらず、冊封使節といえど、武装する必要があったからです。

 

例えば、1796年に即位した第7代皇帝・嘉慶帝は、琉球に派遣する冊封使節団に対し「海賊いっぱいいるから、文武に秀でて、海賊との実戦経験のある航海に詳しいやつ連れてった方が良いよ」との指示をしていたりします。

 

「公相君」とその多くの弟子、というのは、将校とその部下、というのが実態でしょう。

そして冊封は国防に関わる重要な国事行為ですから、清国中枢の人間が選ばれます。実際に、冊封使節の一番偉い人・正使は毎回満州人(モンゴル系)でした。そしてその満州人の護衛も当然、満州人であるはずです。(同胞の方が信頼できるからです)

 

すると満州人の素手の武術といえば、突く蹴るの打撃系ではなく、組討って戦う相撲・柔術系です。

 

「公相君」が、清国から派遣された満州人(モンゴル系)の武官であるから、モンゴル人の得意な相撲を修めていたので、「組合術」で人を投げた、と考えれば辻褄は合います。

※清国は、1億人超の多数の漢民族を、数十万~100万人の少数の満州民族が支配するという、征服王朝でした。

 

いずれにせよ、琉球人が組技にも触れる環境にいたと裏付けられます。

支那手(柔術の如き者)」の記述

・乱暴漢の養成所、掃きため、琉球新報、 3 面、1899年 1 月15日

「全く自己の腕試しの爲め無法を働く事と存候現ふ此等悪漢を集めて武芸を享受致候曲者は辻ウカンヌヒラーの、空井戸の上の小路より入りて奥に住める前里某といへる50余歳の老人に有之候。此老人は常々方々の無頼漢を自宅に集め支那手(柔術の如き者)を教授し 1 日 1 人より 2 銭宛の教授料を徴収して活計を立て其門人なる暴漢中にて武術の進歩したる者を夜々遊郭内の道に出して実
地試験をなし他人と喧嘩を致させ候由にて聞も恐ろしき次第に御座候。」

(赤字筆者加筆)

「前里という老人が支那手(柔術のようなもの)を教え、遊郭(辻でしょう)で腕試しをさせている」との旨の記述があります。

 

唐手といえば打撃のイメージがありますが、当時の新聞記者たちは柔術と捉えていたようです。

「唐手(支那流の柔術の?)」の記述

・頑派の児童教育、琉球新報、 2 面、1898年 6 月13日

教育の必要は、流石の頑派連も多少気が付いたと見え、以前より同臭味の者共を語らひ、桃原なる浦添朝忠氏(旧按司家にして久しく清国に滞留し近年帰県せし同派の首領株)の邸内に集会し、 7 、 8 歳以上の学齢児童を勧誘し盛んに漢籍(四書類)算術習字唐手(支那流の柔術の?)なとの諸科目を教授せり。講師は何つれの馬の骨やは知らされともに、 2 、 3 名許りもある由にて生徒も亦 5 、60名以上あり。

(赤字筆者加筆)

「頑固派(親旧琉球王府勢力、親日派の開化派と対立した)のが児童に学問のほか、唐手という支那流の柔術を教えている」との旨の記述があります。

 

こちらの記事でも唐手は打撃ではなく、柔術と捉えられています。

「『パッサイ』『クウサンクン』『ナイハンチン』」の記述 

・原国政勝氏の危難、彙報、琉球教育 第 4 号、1896年

「抑も本県の拳骨を弄するは、他府県に於ける撃剣、槍術なり。一名唐手と称す其の技術の目 に於いては『パッサイ』『クウサンクン』『ナイハンチン』等の名ありて琉球人士は古くより皆これを鍛錬し、以て有事に備ふる者即ち台湾土匪が学務部員を殺害セル槍棍及び刀剣と其用は毫も異なるところなし。」

(赤字筆者加筆)

沖縄県素手の打撃を鍛えるのは、他県でいう武器の稽古と同等だ。唐手の技術には『パッサイ』『クウサンクン』『ナイハンチン』等の名の付くものがあり、この唐手の技で人を殴るのは、かつて台湾の民族が武器を使って琉球人を襲うのと全く同じだ」との旨があります。

 

上記3つの新聞記事は親清の頑固党に対立していた、親日の開化党による記事なので、プロパガンダの様相を呈しています。

 

この『原国政勝氏の危難』は、頑固党が示威行為として明治政府の建てた学校前を練り歩いたところ、小学校児童たちがそれを馬鹿にした。これを教員は止めなかったとして、頑固党がその教員たちを殴った。との脈絡があります。

 

かつて明治政府は台湾を日本領とし、学校を建設していました。その運動会に台湾先住の民が刃物を持って乗り込み日本人教員を殺害した事件があります。その事件の襲撃者と沖縄の頑固党を同一視する内容です。

 

この記事では、唐手は打撃と捉えていますね。

「Mixture of Boxing and Wrestling」の記述 

・KARATE, EXPLAINED BEFORE BIG CROWD ON NUUANU Y.M.C.A.  The Honolulu Advertiser 1927年7月9日 

「Japanese Method of Defence and Attack Shown by Ex-Officer:Is Mixture of Boxing and Wrestling

屋部憲通のハワイ訪問時の現地記事です。

「退役尉官による解説、日本の攻防の技法はボクシングとレスリングの混成である」との旨の記述があります。

(筆者訳、赤字筆者加筆)

 

屋部憲通は、首里手の始祖ともされる松村宗棍の直弟子であり、日露戦争に参加し武功を挙げ「屋部軍曹」の名で当時の沖縄を熱狂させた英雄です。

また、実戦空手の雄として名高い本部朝基とも親交があった様で手合わせもしたようです。

彼は太平洋戦争の沖縄戦にて、捕虜収容所で非業の死を遂げます。喜屋武朝徳や花城長茂も同様に沖縄戦が契機となり無くなってしまいました。

 

こちらでは、打撃かつ柔術と説明がされています。

まとめ 唐手は明手と清手

明国は漢民族の統治した国で、そこで好まれた武術も、琉球に移入された武術も当然、漢民族の伝統的な武術であったはずです。

すると漢民族の武術とはどんなものであったのか?

 

これを新垣師範は、

「明から琉球に派遣された明人(漢民族)の技術者集団がいる。(いわゆる閔人36姓)そこには武官もいたはずだ。そして彼らは、農耕民族であった。農耕民族は、帯刀の習慣がなく、また、タンパク質を家畜(肉や乳)から摂取しないので、体格が小さかった。それゆえ、刀を用いない素手の武術で、かつ相撲と異なり、体格への依存の少ない打撃の武術が好まれた。その打撃の武術が、交流の中で琉球に根付いていったのだろう。」

との旨を述べておられます。

 

実際に、

1450年に尚金福王の従者が人を殴り殺して死刑

1472年に尚円王の従者が人を殴り殺して死刑

1719年に「拳頭打」の字 『中山伝言禄』より

1801年に「琉球人薩摩の那覇奉行所に召されて瓦六枚を割る」 『薩遊紀行』より

 

というように拳で殴る技法の存在と、その定着が読み取れます。

 

しかし、1636年には、明国を倒し、清国が興ります。

清国は、満州民族の統治した国で、満州民族は今でいうモンゴル民族です。冊封や技術の提供などの公的な行事は彼らが主導したはずで、今度は満州民族の武術が琉球にもたらされることになります。

 

満州民族の武術に関して新垣師範は、

満州民族、今でいうモンゴル人たちは、中国東北部に生まれた狩猟民族で、獲物を裁くために帯刀の習慣があった。帯刀していれば素手の打撃などする必要はなく、組技は武器の有無にかかわらず一定の効果は発揮する組技系、即ち相撲が彼らに好まれた。また、タンパク質の豊富な食生活(肉、乳、ヨーグルトなど)により、体格に恵まれたことも、組技が選ばれた理由の一つだろう。」

との旨を述べておられます。

 

たしかに、満州民族(モンゴル人)は相撲好きで、それは善撲営やモンゴル相撲が名高い理由も説明がつきます。

そして、1800年末の唐手を支那流の柔術と捉える昔の新聞記事も、沖縄に満州民族の武術が移入されていたからだと説明ができます。

 

唐手が明の手から清の手に、即ち打撃から組技へと言葉の意味が変わったのだという結論になります。そしてここに、大和の手、即ち日本剣術の思想・心身操作が加わり空手へと昇華されます。

 

東アジアで、いや世界で最も長く豊かに栄えた漢民族の文化が醸成した格闘技と、ユーラシアで最強を誇ったモンゴル騎馬民族の格闘技、孤島で長期間錬磨され大国清をも慄かせた日本剣術の思想・心身操作をベースに再構築した武術が空手ということができます。

なんと贅沢な武術なのでしょう。

筋抜きの意義と漢字表記

やっと筋抜きの意味が分かりました。腕を動かすというより、腕を変形させる練習なんだと思います。

過去の広背筋の記事を読んで頂ければ分かると思いますが、腕は肩から始まるのではなく、腰から始まると無想会では教わります。

この背中から始まる腕を、筋肉を収縮させながら拮抗筋で伸展させる事で弾性を与え変形させる練習です。

弾性のイメージを身近なもので説明すると、下敷きや定規、台所のシンクとか、即ち硬さがありつつも完全な剛体ではないものになります。

例えば、下敷きを上下から圧縮するとベコベコ言います。

この時、力の方向は常に一定なのに、撓んだ部分をほんの少し押すと、下敷きの変形(膨らみ?)は表⇄裏に瞬時に切り替わります。

指先を広背筋の最下部まで目一杯引き絞ってビンビンに張ると、下敷きがべコベコと切り替わるように、指先の操作で肘関節の伸展⇄屈曲が、べコンと入れ替わります。

この下敷きベコベコ・肘関節べコンベコンが、師範の言ってたキックバックのはずです。

筋抜きは、広背筋下部から指先を一本の弦にする作業です。

その予備運動として、無想会では指先を思っきし開いて(パーにして)指をビンビンに張る練習があるのです。

「貫」という字は、「貫通」のようなつらぬくという意味の他にも、「貫弓(かんきゅう):弓を引き絞るという意味」のような、引き絞るという意味もあります。

筋抜きは、背中から指先までを一本に繋げる(貫く:つらぬく)、そして指先を背中(広背筋下部・仙骨)に向けて引き絞る(貫く:ひく)という二つの意味で、筋抜きではなく筋貫きなのだと思います。

背理法で導かれる空手の形分解、鍛錬形の矛盾

注記:この記事では、一般的になされる解釈の矛盾の証明を試みたのであって、特定の流派・個人を批判しているわけでもなく、また無想会の賞賛が目的でもなければ、「他流派もこうするべきだ!」などと主張しているわけでもございません。公平を期すために、いずれ私の思う無想会の形解釈の矛盾、疑問点を記します。

注記2:加えて、この記事は私個人が自発的に記した記事であって、無想会の公式声明でもなければ、無想会の知る所でもないので、以下の記述による批判は私個人に負います。

 

背理法というのがあります。

高校1年くらいの数学で習うもので

「ある仮定をおいて矛盾が現れた場合、その仮定は誤り」

という感じのものです。

 

「√3が無理数であることを証明するために、√3が有理数であると仮定して、√3=n/mとおくと...」

とかです。

 

たとえば、私の家の猫のシロを犬であると仮定します。

そうすると、「ワン」と吠えないし、嬉しいと喉を鳴らすなど、犬の特徴は持っていないから、「シロは犬」という仮定は誤り、ということが導けます。

 

この背理法の「ある仮定をおいて矛盾が現れた場合、その仮定は誤り」というのを用いて空手の形について記していきます。

 

空手の形にはおおざっぱに、以下の隠れた仮定が存在します。

「形は分解して使うもの」

「距離のある敵を想定した打撃戦のもの」

「四方八方に複数の敵が現れるもの」

「実際は武器術の形」

「そのまま使うことはできない鍛錬の形」

これらの仮定を検討します。

現行の形解釈の隠れた 仮定

形は分解して使う

「分解してよいのならば、なぜこの順番で覚えるのか?なぜこの順番で伝わったのか?」

というシンプルな疑問が発生します。

 

さらに、もっと重大な問題もあります。

 

形は日本武道の根幹をなすものですが、本質的には道具です。すなわち、先人の業・技を後世に伝承するための手段です。

 

しかし、形分解というのは、想像または、創造になってしまいます。すなわち、この動作は「〇〇っぽいな!?」という判断で、本来の形の動作を理解するのではなく、当人の考えた意味を付与してしまっています。

 

さらには、その解釈も当人1世代のみの経験のなかで見いだされる「〇〇っぽい動き」で、淘汰や知識・経験の集積と継承がなく、アインシュタインの言う「巨人の背」に乗れていないのです。

 

つまり、伝承の道具を創造・想像という伝承とは対極の行為で理解しようとしているということになり、これは矛盾です。

 

他には、

「形は無数の解釈を許すのだ」

「形は自分の気づき次第で無数の応用ができる」

「形は先人の暗号であり我々が自在に解釈するためのもの」

「形は技を盗ませないために偽装されて伝わったのだ」

等もあります。

 

しかし、これらの発想から生まれる形分解は、全て想像力・創造性の発揮、自分1人で、失礼な言い方ですが無根拠に思いついたものであって、伝承ではありません。

 

軍用の暗号ですら法則があるのです。しかし上記のような形分解には一切の法則がありません。

故に本来の意味を理解できたとする根拠が無いのです。

(もしご理解いただけない場合、「追記2 意味の付与と理解の違い」をご覧ください。)

 

矛盾が生まれたので背理法の下、「形は分解して使う」という前提は誤りです。

打撃戦のもの

形が距離のある相手と対している、とした場合、たくさん矛盾が生まれます。例えば山突きや受け技です。

那須川 天心 on Twitter: "トリケラトプス拳 #RISEWS https://t.co/660JzZqBFW" / Twitter

(画像はトリケラトプス拳を披露する那須川天心選手 元ネタは漫画で、さらにその元ネタは空手の形の山突き、または諸手突きです。)

 

こんな不自然なことをする人もした人も実際の戦いや組手、試合(パフォーマンス除く)で我々は見たことがないはずです。

 

(当たれば意外と効く、とか言われますが、リーチが出せないので当たらないし、顔面がら空きだしで不利です。片手でしか突けないと、組手や喧嘩を経験したことのある人間なら分かるはずです。)

 

それ故に、

「形の中では諸手の山突きだが、実際は片手で突くのだ」

というように形を改変していくのですが、それではもはや形を学ぶ意味すらありません。

 

そうするくらいなら、自分でコンビネーションを作ってしまえばよいのです。

 

受け技や約束組手も同様です。あれは仕手が無意識のうちに突いた腕を受け手の目の前で止めています。そうしなければ相手は「受け」ができないからです。

 

しかし、実際に戦う場合、打ったら腕は素早く引くか、打った勢いのまま相手に突っ込んでいきます。それは本当に怒った人間と喧嘩をしたことのある人なら、組み合いを経験したことはあるはずです。

 

El Nakamori — EXPECTATION Vs REALITY

(自分も相手も無意識にどこかを掴み、いつの間にか服が破れている、というのを経験するはずです。しかしウンコ中…)

 

総合やムエタイ、ボクシング等でもそれぞれ、テイクダウン・首相撲・ブレイク(中断)という形が発生し、「受け」「約束組手」の間合いがないのが分かるはずです。

ガイオジムBLOG: 好きなMMA選手

 

故に形の動作が「打撃戦のもの」という前提も背理法の下、誤りです。

 

(打撃での矛盾を感じ取り、柔術や柔道の投げや解脱の動作との相似を指摘し、柔術的に解釈することもあるそうです。柔術的解釈自体は合理的に思いますが、しかし、この場合「形は分解して使う」の項の矛盾点に帰着します。)

四方八方に複数の敵

例えば、マンジ受けや、髷隠しの手刀受けがあります。あれらはだれがどう見たって不合理です。

マンジ受けは、

「前手は相手からの中段攻撃、後ろの手は相手からの上段攻撃を同時に受ける~」

という説明がありますが、相手と呼吸を合わせねば不可能で、そんな技を伝承させるわけがありません。

 

また同様に、クーシャンク―等では、髷隠しで前後からの攻撃を同時に処理して、前方のみに蹴りを打ちます。

しかし、「いや、後ろは!?」となってしまいます。むしろ後ろに敵をおいてしまった時点でかなり武術的に不自然です。

07トピックス

(画像は形競技の分解 この場合は競技であり、形の解釈のオリジナリティや見目の麗しさが採点基準です。そして勝負事は勝ちを狙わねば出る意味がありませんから、私はこの競技に限り形分解はアリだと思います。)

 

この場合、

「たしかに形の中ではこうで不自然だが、実際はこのように変形して、または動作を加えて...」

と補足の説明がよくなされます。

これも、前項と同様、ただの独創であって、伝承が目的の形でやる必要がないのです。

 

故に「四方八方に複数の敵」の前提も誤りです。

実際は武器術の形

「ならば、なぜ最初から武器の形として伝承させなかったのか?」となります。武器術の形は沖縄にいくつか存在するからです。

 

「いや、昔の沖縄の武人は武器の所持・稽古が薩摩により禁じられていたから、形の中に隠したのだ」

という話も聞きますが、公的な場での帯刀が禁じられていただけで、普通に稽古されていたようです。

 

実際に松村宗昆は刀の名手としても知られていましたし、日本刀を持った琉球の武士の写真も残っています。

義村朝義 - Wikipedia

(画像は義村朝義、王族。松村宗昆から棒術・剣術を習ったとされる。文人としても有名、大阪空襲にて死去。)

 

故に「実際は武器術」という前提も誤りです。

身体操作を学ぶための鍛錬の形

唐手移入以前には既に琉球の武士たちは剣術を稽古していました。それゆえにいわゆる「武術的身体」はもう練られていたはずで、鍛錬のためだけの形などいまさら必要としていなかったはずです。

 

「無手の術と武器術の原理を一緒にするな」

 

と思われるかもしれません。

 

たしかに、無手と武器では使う技には大きく異なりはあるでしょう。

しかし、根本的な身体操作の原理は、剣術も棒術も柔術もみな同様に行うとされているのは、古武術を少し調べればわかります。そうでなければ武芸十八般などこなせないはずです。

 

もし、中国から移入した形で鍛錬していた場合、中国拳法的な那覇手系統の形稽古と、日本武術的な首里手系統の技術的断絶を説明できません。

 

故に、ナイファンチ・サンチン等は、鍛錬のみを目的とせずに、昔の武士たちに稽古されていたはずです。首里手にもサンチン・セイサン等は残るので、武士階級はそれらも稽古していたでしょう。)

さすれば、ナイファンチ・サンチン等もいわゆる「実戦形」であった、ということになります。

 

考えてみれば当たり前で、形は実際の戦い以外から生まれようがありません。そして実戦から生まれたのであればあれば、相対での演武が可能なはずです。

 

また、この鍛錬形説は、上記の様な一部のシンプルな形しか説明できません。

 

まとめると、琉球の武士たちは「鍛錬」はもう剣術で間に合っていた。更に、形が実戦から生まれた以上、相対で演武できて当然である。加えて、その前提では大半の形の存在意義を説明できない、となります。

 

故に「鍛錬の形」という前提も背理法の下に誤りです。

結論

上記から、仮定の誤りが証明され、それらをまとめると

「形は、自由に分解はできず、敵は四方に複数で存在はせず、離れた距離での打撃戦はしないし、鍛錬のためだけの形はない」

となります。

 

そうすると、

「最初から最後まで形をそのまま使うしかなく、敵は特定の方向に単独で存在し、離れていないのならば組み合っているしかなく、全てが実戦の形」

という結論が導けるかと思います。

 

この結論に背かない形の運用というのは、現時点で無想会の形解釈しかありません。

 

「無想会の回し者め!」と思われるかもしれませんが、順番が逆で、最も矛盾が無いと上記のように思ったからこそ無想会を学ぶに至ったのです。

追記 形の思想

形が戦いの思想を教えてくれるというのは、正しいと思います。しかし、それも上記のような誤った前提・仮定に基づかず導かれた解釈に拠らねばなりません。当然ですが、誤った前提・仮定からは誤った結論しか導かれません。

追記2 意味の付与と理解の違い 

Introduction to Ancient Egyptian Hieroglyphs - Planet Archaeology

突然ですが、このヒエログリフ、何と読むでしょうか?

 

「草が下がり、獅子が寝ていて武器のようなものがある。だから、草原でライオン狩りをするんだな!」

などと読んだりできます。

 

 

 

 

しかし、実際には

プトレマイオス」(人名)

です。

(pやoの字に同じヒエログリフが対応しているのが分かる)

 

ヒエログリフは、一見すると絵文字や漢字の様に、文字自体に意味のある表意文字と思われがちですが、実際はアルファベットや平仮名のように音を表す表音文字がメインです。

 

ところが、絵文字のような表意文字であると誤解され荒唐無稽な翻訳がなされました。

 

ヒエログリフ研究で当時有名で、様々な分野で活躍した科学者アタナシウス・キルヒャーは、

 

「二つの国を栄えさせる輝く黄金。」

 

という短い文章を、

 

「至上の神にして原型であるヘンフタは、その力と贈り物を、星辰界の魂、すなわち、それに服従する太陽神に注ぎこみ、それゆえ、物質界、すなわち元素界の(以下略)」

 

と翻訳しています。

 

しかし後に、表音文字であるとの見直しや、ヒエログリフギリシャ語で同内容の文章が書かれたロゼッタストーンの発見により、ヒエログリフの機能が明らかになります。

 

また、ビジネスシーンに、

ヒエログリフから連想されるイメージで、問題の解決策を想起する」

という「死者の書」なるテクニックがあります。

(「死者の書」の使用例)

 

これはあくまで連想・創造のテクニックであって、ヒエログリフの理解を試みているのではありません。

しかし、現行の形分解というのはこの手法を形に対して使ってしまっているのです。

 

キルヒャーの行ったことは、見た感じによる意味の付与です、空想に過ぎません。

死者の書」は、ヒエログリフ本来の意味以外のことを連想する技法です。

 

対して、後世がロゼッタストーンを基に行ったのは、証拠による理論・体系の構築とそれによる理解です。

 

形の解釈において、後者のような理解こそが、効率的な稽古と伝承につながるのだと思います。

追記3 宗教化する武術流派とこの記事の目的

この記事は無想会賛美のプロパガンダではありません。自らの知識の整理に加え、今後記事を書いていく上で、無想会の形解釈が正しいものと前提を置くために、その証明と予想される反論への反証を記しておきたかったのです。

 

そのようなプロパガンダを必要とするのは、なにか自分より大きなものと一体化することでしか自分に価値を感じることのできない人間のみです。

 

そのような人が武術をやる潜在的な動機は、「強くなりたい」ではなく、「(自分を)強いと思いたい」「(周囲の人に)強いと思われたい」なのでしょう。

 

それゆえ、技術の有効性・合理性は一切関係なく、自分がその自分よりも大きなものと繋がれているか、そしてそれが素晴らしいか(素晴らしいと自分が信じられるか)のみが関心の対象で、本稿のような説得・説明・論証など無意味です。

 

昨今、カルトに注目が集まっています。彼ら信者たちは、経済的・将来的には大変不合理で傍から見れば理解不能ですが、「不安から逃げたい」「自分に価値を感じたい」という現実逃避の側面から見れば、理にかなってはいるのです。

 

しかし、そのような集団への埋没・陶酔は、絶対主観を根底に持つ禅宗とともに育まれ、自得を要求する日本武道の修行には無縁です。

 

故に本稿は、そのような方々への主張の押し付けでもなければ、自らを、または他の無想会会員を高揚させたいわけでもありません。