注記:この記事では、一般的になされる解釈の矛盾の証明を試みたのであって、特定の流派・個人を批判しているわけでもなく、また無想会の賞賛が目的でもなければ、「他流派もこうするべきだ!」などと主張しているわけでもございません。公平を期すために、いずれ私の思う無想会の形解釈の矛盾、疑問点を記します。
注記2:加えて、この記事は私個人が自発的に記した記事であって、無想会の公式声明でもなければ、無想会の知る所でもないので、以下の記述による批判は私個人に負います。
背理法というのがあります。
高校1年くらいの数学で習うもので
「ある仮定をおいて矛盾が現れた場合、その仮定は誤り」
という感じのものです。
「√3が無理数であることを証明するために、√3が有理数であると仮定して、√3=n/mとおくと...」
とかです。
たとえば、私の家の猫のシロを犬であると仮定します。
そうすると、「ワン」と吠えないし、嬉しいと喉を鳴らすなど、犬の特徴は持っていないから、「シロは犬」という仮定は誤り、ということが導けます。
この背理法の「ある仮定をおいて矛盾が現れた場合、その仮定は誤り」というのを用いて空手の形について記していきます。
空手の形にはおおざっぱに、以下の隠れた仮定が存在します。
「形は分解して使うもの」
「距離のある敵を想定した打撃戦のもの」
「四方八方に複数の敵が現れるもの」
「実際は武器術の形」
「そのまま使うことはできない鍛錬の形」
これらの仮定を検討します。
現行の形解釈の隠れた 仮定
形は分解して使う
「分解してよいのならば、なぜこの順番で覚えるのか?なぜこの順番で伝わったのか?」
というシンプルな疑問が発生します。
さらに、もっと重大な問題もあります。
形は日本武道の根幹をなすものですが、本質的には道具です。すなわち、先人の業・技を後世に伝承するための手段です。
しかし、形分解というのは、想像または、創造になってしまいます。すなわち、この動作は「〇〇っぽいな!?」という判断で、本来の形の動作を理解するのではなく、当人の考えた意味を付与してしまっています。
さらには、その解釈も当人1世代のみの経験のなかで見いだされる「〇〇っぽい動き」で、淘汰や知識・経験の集積と継承がなく、アインシュタインの言う「巨人の背」に乗れていないのです。
つまり、伝承の道具を創造・想像という伝承とは対極の行為で理解しようとしているということになり、これは矛盾です。
他には、
「形は無数の解釈を許すのだ」
「形は自分の気づき次第で無数の応用ができる」
「形は先人の暗号であり我々が自在に解釈するためのもの」
「形は技を盗ませないために偽装されて伝わったのだ」
等もあります。
しかし、これらの発想から生まれる形分解は、全て想像力・創造性の発揮、自分1人で、失礼な言い方ですが無根拠に思いついたものであって、伝承ではありません。
軍用の暗号ですら法則があるのです。しかし上記のような形分解には一切の法則がありません。
故に本来の意味を理解できたとする根拠が無いのです。
(もしご理解いただけない場合、「追記2 意味の付与と理解の違い」をご覧ください。)
矛盾が生まれたので背理法の下、「形は分解して使う」という前提は誤りです。
打撃戦のもの
形が距離のある相手と対している、とした場合、たくさん矛盾が生まれます。例えば山突きや受け技です。
(画像はトリケラトプス拳を披露する那須川天心選手 元ネタは漫画で、さらにその元ネタは空手の形の山突き、または諸手突きです。)
こんな不自然なことをする人もした人も実際の戦いや組手、試合(パフォーマンス除く)で我々は見たことがないはずです。
(当たれば意外と効く、とか言われますが、リーチが出せないので当たらないし、顔面がら空きだしで不利です。片手でしか突けないと、組手や喧嘩を経験したことのある人間なら分かるはずです。)
それ故に、
「形の中では諸手の山突きだが、実際は片手で突くのだ」
というように形を改変していくのですが、それではもはや形を学ぶ意味すらありません。
そうするくらいなら、自分でコンビネーションを作ってしまえばよいのです。
受け技や約束組手も同様です。あれは仕手が無意識のうちに突いた腕を受け手の目の前で止めています。そうしなければ相手は「受け」ができないからです。
しかし、実際に戦う場合、打ったら腕は素早く引くか、打った勢いのまま相手に突っ込んでいきます。それは本当に怒った人間と喧嘩をしたことのある人なら、組み合いを経験したことはあるはずです。
(自分も相手も無意識にどこかを掴み、いつの間にか服が破れている、というのを経験するはずです。しかしウンコ中…)
総合やムエタイ、ボクシング等でもそれぞれ、テイクダウン・首相撲・ブレイク(中断)という形が発生し、「受け」「約束組手」の間合いがないのが分かるはずです。
故に形の動作が「打撃戦のもの」という前提も背理法の下、誤りです。
(打撃での矛盾を感じ取り、柔術や柔道の投げや解脱の動作との相似を指摘し、柔術的に解釈することもあるそうです。柔術的解釈自体は合理的に思いますが、しかし、この場合「形は分解して使う」の項の矛盾点に帰着します。)
四方八方に複数の敵
例えば、マンジ受けや、髷隠しの手刀受けがあります。あれらはだれがどう見たって不合理です。
マンジ受けは、
「前手は相手からの中段攻撃、後ろの手は相手からの上段攻撃を同時に受ける~」
という説明がありますが、相手と呼吸を合わせねば不可能で、そんな技を伝承させるわけがありません。
また同様に、クーシャンク―等では、髷隠しで前後からの攻撃を同時に処理して、前方のみに蹴りを打ちます。
しかし、「いや、後ろは!?」となってしまいます。むしろ後ろに敵をおいてしまった時点でかなり武術的に不自然です。
(画像は形競技の分解 この場合は競技であり、形の解釈のオリジナリティや見目の麗しさが採点基準です。そして勝負事は勝ちを狙わねば出る意味がありませんから、私はこの競技に限り形分解はアリだと思います。)
この場合、
「たしかに形の中ではこうで不自然だが、実際はこのように変形して、または動作を加えて...」
と補足の説明がよくなされます。
これも、前項と同様、ただの独創であって、伝承が目的の形でやる必要がないのです。
故に「四方八方に複数の敵」の前提も誤りです。
実際は武器術の形
「ならば、なぜ最初から武器の形として伝承させなかったのか?」となります。武器術の形は沖縄にいくつか存在するからです。
「いや、昔の沖縄の武人は武器の所持・稽古が薩摩により禁じられていたから、形の中に隠したのだ」
という話も聞きますが、公的な場での帯刀が禁じられていただけで、普通に稽古されていたようです。
実際に松村宗昆は刀の名手としても知られていましたし、日本刀を持った琉球の武士の写真も残っています。
(画像は義村朝義、王族。松村宗昆から棒術・剣術を習ったとされる。文人としても有名、大阪空襲にて死去。)
故に「実際は武器術」という前提も誤りです。
身体操作を学ぶための鍛錬の形
唐手移入以前には既に琉球の武士たちは剣術を稽古していました。それゆえにいわゆる「武術的身体」はもう練られていたはずで、鍛錬のためだけの形などいまさら必要としていなかったはずです。
「無手の術と武器術の原理を一緒にするな」
と思われるかもしれません。
たしかに、無手と武器では使う技には大きく異なりはあるでしょう。
しかし、根本的な身体操作の原理は、剣術も棒術も柔術もみな同様に行うとされているのは、古武術を少し調べればわかります。そうでなければ武芸十八般などこなせないはずです。
もし、中国から移入した形で鍛錬していた場合、中国拳法的な那覇手系統の形稽古と、日本武術的な首里手系統の技術的断絶を説明できません。
故に、ナイファンチ・サンチン等は、鍛錬のみを目的とせずに、昔の武士たちに稽古されていたはずです。(首里手にもサンチン・セイサン等は残るので、武士階級はそれらも稽古していたでしょう。)
さすれば、ナイファンチ・サンチン等もいわゆる「実戦形」であった、ということになります。
考えてみれば当たり前で、形は実際の戦い以外から生まれようがありません。そして実戦から生まれたのであればあれば、相対での演武が可能なはずです。
また、この鍛錬形説は、上記の様な一部のシンプルな形しか説明できません。
まとめると、琉球の武士たちは「鍛錬」はもう剣術で間に合っていた。更に、形が実戦から生まれた以上、相対で演武できて当然である。加えて、その前提では大半の形の存在意義を説明できない、となります。
故に「鍛錬の形」という前提も背理法の下に誤りです。
結論
上記から、仮定の誤りが証明され、それらをまとめると
「形は、自由に分解はできず、敵は四方に複数で存在はせず、離れた距離での打撃戦はしないし、鍛錬のためだけの形はない」
となります。
そうすると、
「最初から最後まで形をそのまま使うしかなく、敵は特定の方向に単独で存在し、離れていないのならば組み合っているしかなく、全てが実戦の形」
という結論が導けるかと思います。
この結論に背かない形の運用というのは、現時点で無想会の形解釈しかありません。
「無想会の回し者め!」と思われるかもしれませんが、順番が逆で、最も矛盾が無いと上記のように思ったからこそ無想会を学ぶに至ったのです。
追記 形の思想
形が戦いの思想を教えてくれるというのは、正しいと思います。しかし、それも上記のような誤った前提・仮定に基づかず導かれた解釈に拠らねばなりません。当然ですが、誤った前提・仮定からは誤った結論しか導かれません。
追記2 意味の付与と理解の違い
突然ですが、このヒエログリフ、何と読むでしょうか?
「草が下がり、獅子が寝ていて武器のようなものがある。だから、草原でライオン狩りをするんだな!」
などと読んだりできます。
しかし、実際には
「プトレマイオス」(人名)
です。
(pやoの字に同じヒエログリフが対応しているのが分かる)
ヒエログリフは、一見すると絵文字や漢字の様に、文字自体に意味のある表意文字と思われがちですが、実際はアルファベットや平仮名のように音を表す表音文字がメインです。
ところが、絵文字のような表意文字であると誤解され荒唐無稽な翻訳がなされました。
ヒエログリフ研究で当時有名で、様々な分野で活躍した科学者アタナシウス・キルヒャーは、
「二つの国を栄えさせる輝く黄金。」
という短い文章を、
「至上の神にして原型であるヘンフタは、その力と贈り物を、星辰界の魂、すなわち、それに服従する太陽神に注ぎこみ、それゆえ、物質界、すなわち元素界の(以下略)」
と翻訳しています。
しかし後に、表音文字であるとの見直しや、ヒエログリフとギリシャ語で同内容の文章が書かれたロゼッタストーンの発見により、ヒエログリフの機能が明らかになります。
また、ビジネスシーンに、
「ヒエログリフから連想されるイメージで、問題の解決策を想起する」
という「死者の書」なるテクニックがあります。
(「死者の書」の使用例)
これはあくまで連想・創造のテクニックであって、ヒエログリフの理解を試みているのではありません。
しかし、現行の形分解というのはこの手法を形に対して使ってしまっているのです。
キルヒャーの行ったことは、見た感じによる意味の付与です、空想に過ぎません。
「死者の書」は、ヒエログリフ本来の意味以外のことを連想する技法です。
対して、後世がロゼッタストーンを基に行ったのは、証拠による理論・体系の構築とそれによる理解です。
形の解釈において、後者のような理解こそが、効率的な稽古と伝承につながるのだと思います。
追記3 宗教化する武術流派とこの記事の目的
この記事は無想会賛美のプロパガンダではありません。自らの知識の整理に加え、今後記事を書いていく上で、無想会の形解釈が正しいものと前提を置くために、その証明と予想される反論への反証を記しておきたかったのです。
そのようなプロパガンダを必要とするのは、なにか自分より大きなものと一体化することでしか自分に価値を感じることのできない人間のみです。
そのような人が武術をやる潜在的な動機は、「強くなりたい」ではなく、「(自分を)強いと思いたい」「(周囲の人に)強いと思われたい」なのでしょう。
それゆえ、技術の有効性・合理性は一切関係なく、自分がその自分よりも大きなものと繋がれているか、そしてそれが素晴らしいか(素晴らしいと自分が信じられるか)のみが関心の対象で、本稿のような説得・説明・論証など無意味です。
昨今、カルトに注目が集まっています。彼ら信者たちは、経済的・将来的には大変不合理で傍から見れば理解不能ですが、「不安から逃げたい」「自分に価値を感じたい」という現実逃避の側面から見れば、理にかなってはいるのです。
しかし、そのような集団への埋没・陶酔は、絶対主観を根底に持つ禅宗とともに育まれ、自得を要求する日本武道の修行には無縁です。
故に本稿は、そのような方々への主張の押し付けでもなければ、自らを、または他の無想会会員を高揚させたいわけでもありません。