無想会・沖縄同好会

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空手/唐手は柔術? 1800年末の新聞記事の考察

空手/唐手は打撃の武術、というイメージが強いですが、以下の5つの記事においては、打撃だけではなく柔術/組技の武術であるとの言及がされています。

 

最初の『大島筆記』はメジャーな出典ですが、後半はかなりマイナーな史料に触れています。加えて、新垣師範からご講義頂いた座学の内容も含まれておりますから、空手史マニア諸兄にもご満足頂けるかと思います、ぜひ最後までお読みいただければ幸いです。

 

「組合術~公相君」の記述

琉球を出た楷船(官船)が、四国は土佐藩、大島浦に漂着したとの記述がなされた、1762年の史料です。

 

・大島筆記 1762年

「先年組合術[良熈謂武備志載スル所ノ拳法トキコユ]ノ上手トテ、本唐ヨリ公相君[是ハ称美ノ号ナル由ナリ]弟子ヲ数々ツレ渡レリ。其ワザ左右ノ手ノ内、何分一ツハ乳ノ方ヲヲサヘ、片手ニテワザヲシ、扨足ヲヨクキカスル術也。甚痩タ弱々トシタル人テアリシガ、大力ノ者無理ニ取付タヲ、其侭倒シタル事ナト有シナリ。」

(赤字筆者)

「先年に中国から来た『公相君』(コウソンクン)なる組合術の上手な者が、扨足を使う武術で大柄な人間を投げた」との旨の記述があります。

*扨足は、足払いや足掛けの事

 

「弟子を多く引き連れて」との記載がありますから、たまたま乗り合わせた中国人、というより、清国から公的に派遣された集団とみることができます。とういのも、当時は海賊が平定されておらず、冊封使節といえど、武装する必要があったからです。

 

例えば、1796年に即位した第7代皇帝・嘉慶帝は、琉球に派遣する冊封使節団に対し「海賊いっぱいいるから、文武に秀でて、海賊との実戦経験のある航海に詳しいやつ連れてった方が良いよ」との指示をしていたりします。

 

「公相君」とその多くの弟子、というのは、将校とその部下、というのが実態でしょう。

そして冊封は国防に関わる重要な国事行為ですから、清国中枢の人間が選ばれます。実際に、冊封使節の一番偉い人・正使は毎回満州人(モンゴル系)でした。そしてその満州人の護衛も当然、満州人であるはずです。(同胞の方が信頼できるからです)

 

すると満州人の素手の武術といえば、突く蹴るの打撃系ではなく、組討って戦う相撲・柔術系です。

 

「公相君」が、清国から派遣された満州人(モンゴル系)の武官であるから、モンゴル人の得意な相撲を修めていたので、「組合術」で人を投げた、と考えれば辻褄は合います。

※清国は、1億人超の多数の漢民族を、数十万~100万人の少数の満州民族が支配するという、征服王朝でした。

 

いずれにせよ、琉球人が組技にも触れる環境にいたと裏付けられます。

支那手(柔術の如き者)」の記述

・乱暴漢の養成所、掃きため、琉球新報、 3 面、1899年 1 月15日

「全く自己の腕試しの爲め無法を働く事と存候現ふ此等悪漢を集めて武芸を享受致候曲者は辻ウカンヌヒラーの、空井戸の上の小路より入りて奥に住める前里某といへる50余歳の老人に有之候。此老人は常々方々の無頼漢を自宅に集め支那手(柔術の如き者)を教授し 1 日 1 人より 2 銭宛の教授料を徴収して活計を立て其門人なる暴漢中にて武術の進歩したる者を夜々遊郭内の道に出して実
地試験をなし他人と喧嘩を致させ候由にて聞も恐ろしき次第に御座候。」

(赤字筆者加筆)

「前里という老人が支那手(柔術のようなもの)を教え、遊郭(辻でしょう)で腕試しをさせている」との旨の記述があります。

 

唐手といえば打撃のイメージがありますが、当時の新聞記者たちは柔術と捉えていたようです。

「唐手(支那流の柔術の?)」の記述

・頑派の児童教育、琉球新報、 2 面、1898年 6 月13日

教育の必要は、流石の頑派連も多少気が付いたと見え、以前より同臭味の者共を語らひ、桃原なる浦添朝忠氏(旧按司家にして久しく清国に滞留し近年帰県せし同派の首領株)の邸内に集会し、 7 、 8 歳以上の学齢児童を勧誘し盛んに漢籍(四書類)算術習字唐手(支那流の柔術の?)なとの諸科目を教授せり。講師は何つれの馬の骨やは知らされともに、 2 、 3 名許りもある由にて生徒も亦 5 、60名以上あり。

(赤字筆者加筆)

「頑固派(親旧琉球王府勢力、親日派の開化派と対立した)のが児童に学問のほか、唐手という支那流の柔術を教えている」との旨の記述があります。

 

こちらの記事でも唐手は打撃ではなく、柔術と捉えられています。

「『パッサイ』『クウサンクン』『ナイハンチン』」の記述 

・原国政勝氏の危難、彙報、琉球教育 第 4 号、1896年

「抑も本県の拳骨を弄するは、他府県に於ける撃剣、槍術なり。一名唐手と称す其の技術の目 に於いては『パッサイ』『クウサンクン』『ナイハンチン』等の名ありて琉球人士は古くより皆これを鍛錬し、以て有事に備ふる者即ち台湾土匪が学務部員を殺害セル槍棍及び刀剣と其用は毫も異なるところなし。」

(赤字筆者加筆)

沖縄県素手の打撃を鍛えるのは、他県でいう武器の稽古と同等だ。唐手の技術には『パッサイ』『クウサンクン』『ナイハンチン』等の名の付くものがあり、この唐手の技で人を殴るのは、かつて台湾の民族が武器を使って琉球人を襲うのと全く同じだ」との旨があります。

 

上記3つの新聞記事は親清の頑固党に対立していた、親日の開化党による記事なので、プロパガンダの様相を呈しています。

 

この『原国政勝氏の危難』は、頑固党が示威行為として明治政府の建てた学校前を練り歩いたところ、小学校児童たちがそれを馬鹿にした。これを教員は止めなかったとして、頑固党がその教員たちを殴った。との脈絡があります。

 

かつて明治政府は台湾を日本領とし、学校を建設していました。その運動会に台湾先住の民が刃物を持って乗り込み日本人教員を殺害した事件があります。その事件の襲撃者と沖縄の頑固党を同一視する内容です。

 

この記事では、唐手は打撃と捉えていますね。

「Mixture of Boxing and Wrestling」の記述 

・KARATE, EXPLAINED BEFORE BIG CROWD ON NUUANU Y.M.C.A.  The Honolulu Advertiser 1927年7月9日 

「Japanese Method of Defence and Attack Shown by Ex-Officer:Is Mixture of Boxing and Wrestling

屋部憲通のハワイ訪問時の現地記事です。

「退役尉官による解説、日本の攻防の技法はボクシングとレスリングの混成である」との旨の記述があります。

(筆者訳、赤字筆者加筆)

 

屋部憲通は、首里手の始祖ともされる松村宗棍の直弟子であり、日露戦争に参加し武功を挙げ「屋部軍曹」の名で当時の沖縄を熱狂させた英雄です。

また、実戦空手の雄として名高い本部朝基とも親交があった様で手合わせもしたようです。

彼は太平洋戦争の沖縄戦にて、捕虜収容所で非業の死を遂げます。喜屋武朝徳や花城長茂も同様に沖縄戦が契機となり無くなってしまいました。

 

こちらでは、打撃かつ柔術と説明がされています。

まとめ 唐手は明手と清手

明国は漢民族の統治した国で、そこで好まれた武術も、琉球に移入された武術も当然、漢民族の伝統的な武術であったはずです。

すると漢民族の武術とはどんなものであったのか?

 

これを新垣師範は、

「明から琉球に派遣された明人(漢民族)の技術者集団がいる。(いわゆる閔人36姓)そこには武官もいたはずだ。そして彼らは、農耕民族であった。農耕民族は、帯刀の習慣がなく、また、タンパク質を家畜(肉や乳)から摂取しないので、体格が小さかった。それゆえ、刀を用いない素手の武術で、かつ相撲と異なり、体格への依存の少ない打撃の武術が好まれた。その打撃の武術が、交流の中で琉球に根付いていったのだろう。」

との旨を述べておられます。

 

実際に、

1450年に尚金福王の従者が人を殴り殺して死刑

1472年に尚円王の従者が人を殴り殺して死刑

1719年に「拳頭打」の字 『中山伝言禄』より

1801年に「琉球人薩摩の那覇奉行所に召されて瓦六枚を割る」 『薩遊紀行』より

 

というように拳で殴る技法の存在と、その定着が読み取れます。

 

しかし、1636年には、明国を倒し、清国が興ります。

清国は、満州民族の統治した国で、満州民族は今でいうモンゴル民族です。冊封や技術の提供などの公的な行事は彼らが主導したはずで、今度は満州民族の武術が琉球にもたらされることになります。

 

満州民族の武術に関して新垣師範は、

満州民族、今でいうモンゴル人たちは、中国東北部に生まれた狩猟民族で、獲物を裁くために帯刀の習慣があった。帯刀していれば素手の打撃などする必要はなく、組技は武器の有無にかかわらず一定の効果は発揮する組技系、即ち相撲が彼らに好まれた。また、タンパク質の豊富な食生活(肉、乳、ヨーグルトなど)により、体格に恵まれたことも、組技が選ばれた理由の一つだろう。」

との旨を述べておられます。

 

たしかに、満州民族(モンゴル人)は相撲好きで、それは善撲営やモンゴル相撲が名高い理由も説明がつきます。

そして、1800年末の唐手を支那流の柔術と捉える昔の新聞記事も、沖縄に満州民族の武術が移入されていたからだと説明ができます。

 

唐手が明の手から清の手に、即ち打撃から組技へと言葉の意味が変わったのだという結論になります。そしてここに、大和の手、即ち日本剣術の思想・心身操作が加わり空手へと昇華されます。

 

東アジアで、いや世界で最も長く豊かに栄えた漢民族の文化が醸成した格闘技と、ユーラシアで最強を誇ったモンゴル騎馬民族の格闘技、孤島で長期間錬磨され大国清をも慄かせた日本剣術の思想・心身操作をベースに再構築した武術が空手ということができます。

なんと贅沢な武術なのでしょう。