無想会・沖縄同好会

沖縄同好会の稽古日程、無想会の身体操作を知ることができます!!

構造主義とは、無想会の理論とは、創造性とは、文化とは、すべての競技を貫く共通の運動とは

ムカデは中国語でも「百足」と書きます、英語でムカデは「Centipede」です。

 

「centi」は、1メートルの100等分を表す「センチ」であったり、100年の「century」だったりと、100を意味する単語です。

そして、「pede」は、ペダル(pedal)やペディキュア(pedicure)のように、脚にまつわる単語です。

 

「中華とヨーロッパで、ともにムカデのことを『100本の足』と表現している。これは人類に共通の認知の仕方があるに違いない!」

と幼き日のノーム・チョムスキー少年は考え、これが後に彼の「普遍文法」につながった、とされています。

(聞いた話なんで詳しくは知りませんが。)

 

「普遍文法」は、中国語だろうが英語だろうが、すべての言語に共通の法則がある、というものです。

 

このチョムスキー博士の逸話は、構造主義の好例だと思います。

 

構造主義は、「AとBがあるけど、なんでこんな違いがあるの?」という風に、視点を高くして観察し、現象が派生する法則を発見する方法、と私は理解しています。

 

さて、その構造主義のアプローチを人間の運動、特に武術とその地域差にはじめて持ち込んだのが新垣師範だと思います。

 

武術の専門用語(ex:チンクチ 縮地 倒木法...)を、重力や広背筋というような客観的な言葉で説明し、沖縄空手のみならず、中国武術の技法やマイクタイソンの広背筋をも観察し、広く人間の運動の本質に迫った最初の書物が「沖縄武道空手の極意その1」だと感じ、魅了されました。

 

「運動を生業にする人間で、ここまでアカデミックな考え方をする人がいるのか!」

 

と学園祭の準備をサボって図書館に隠れていた合間に感動したのを今でも覚えています。

 

自分はチョムスキー博士の話を、英語の先生の小話で、師範の本を大学の図書館でたまたま読みました。

 

チョムスキー博士の話を知っていなければ、師範の理論にそこまで惹かれなかったかもしれないし、大学に行かなければ師範の本にも出会っていなかったかもしれません。

 

優れたものを、優れたものだと認識するための下地を整える、という意味だけでも勉強しててよかったなあ、教養って大事だなあと思います。

 

とにかく幸運でした。

 

話が逸れましたが、師範の理論は、運動の根源を説明できると思っています。

 

例えば、「我々がおサルさんの時代からモノを掴むのが本能だから、突きも物をつかむ動作の派生・変形としてやったほうが一番自然なんだ」とか。

 

たしかに、赤ちゃんの指掴む反射なんかは有名です。

 

「そのモノを掴む動作も、哺乳類の4足歩行の時代の前脚の発展だから、チーターが前脚で地面をひっかく動作と一緒だ」

 

「蹴りも4足歩行と一緒、チーターが走るように、はしごを上るようにけりなさい」

と言われます。

 

といういように、一貫した理論のもと説明されます。

 

これによって、我々人間が歩くときに腕を前後に振る由来も、4足歩行の、ハイハイの名残なんだと説明できます。

 

ピッチングも同じです、はしごを上る動作を(ハイハイの動作を)、ボールに対して行っているだけです。

バレーのサーブ・スパイク、テニスのサーブ、やり投げ、すべて手首から先がちょっと違うだけで、やっていることは全部4足歩行です。

 

私は、「一つの原則を、自分の要求や制限に適うように分化発展させる能力」というのが世にいう「センス」や「クリエイティビティ:創造性」だと思っています。

そしてこれを鍛えるのが芸術や学問なんだとも。

 

例えば、五七五の短歌で、オリジナリティ・クリエイティビティを発揮したいからと言って「あばばばばばばばばば」なんて歌は詠めないんです。

 

「たしかに有史以来だれも詠んだことはないだろうが、単にセンス(=ルールの運用能力)がないだけだ」と言われてしまいます。

季語や語数というような制限はおろか、文法すら破綻しているからです。

 

上記をまとめると「上手さ」とは、原則活用の巧みさ・厳密さである、という感じになると思います。

 

ここで、空手の上手さ、即ち原理原則の活用の具合というのはどうなのでしょうか。

 

最初に参加したセミナーで感じたのですが、凄まじいのです。

「腰を回してはいけないのは聞いていたが、手首すらダメなのか..!」と驚愕したのを覚えています。

「これくらい、いいじゃん!」ってならないのは昔の武士は偉かったんだなあ、と今になって思います。

 

「すり足もダメ!摩擦でエネルギーが減る!」

「拳も握ったらダメ!指で加速できるんだから!」

「2拍子はダメ!地面をけって腰を回してなんて論外、足は地面と水平に、じゃないと脚動かすときに、踵→つま先と2拍子になるからダメ!」

「居着いたらダメ!足上げても居着くな!(波返し)」

 

と、私からすれば「こんぐらい、いいじゃん!」または「無理じゃん!」の連続でした。

しかし、昔の武士が求められていたもののキツさというのを垣間見ることができたのかもしれません。

 

上記のような本物の沖縄空手の、偏執さすら感じる厳密さ・巧みさが、無想会からは学べます。積み上げられたものの凄さ、アインシュタインの言う「巨人の肩」を体感できます。

 

師範の言っていた言葉に印象的なものがあります。

「空手は身体文化なんだ」と。

 

私は沖縄出身でありながら、空手にまったく興味がなく、むしろ劣ったものだと思っていました。

 

空手は子供向けの習い事、というのが、小学校・中学校で感じた空手の印象です。

 

「セイッ!www山突き!wwww」とかやって怒られました。

(沖縄は体育の時間に空手やる学校もあります)

 

しかし、これほどの深みを持つならば、身体文化と呼ぶにふさわしいと思います。

 

「この水準をほかの分野でも出したいなあ...?」という欲まで出てきます。

 

そのためにはそもそも自分が上手くならないといけないし、広報ももっとやらねばなりません、資金下さい。がんばります。