無想会・沖縄同好会

沖縄同好会の稽古日程、無想会の身体操作を知ることができます!!

比較空手形/型学? 無想会セミナー座学の一部まとめ

比較言語学というのがあります。

複数の言語を比較して、元の言語の姿を明らかにするというものです。

 

例えば、「歯(は)」や「脛(はぎ:スネの意)」は、八重山方言ではそれぞれ「パ」「パギ」などと発音されます。

そして、16世紀にハングル話者向けに書かれた日本語参考書ではハ行はすべてパ行になっています。

また、中国や韓国でハ行で読まれる字は、日本語に入ると別のよみに置き換えられています。EX,漢(中国:ハン→日本:カン)

すると、日本語と琉球語の原型、日琉祖語にハ行はなかった、となります。

 

このようにして、言語の原型が推定されていきます。

これは、知的推察で、思い込みとは異なり、手法が確立されています。

 

さて、空手の形はどうなのでしょうか?

すると、同名の形で、同じ師匠から継承され、作った人もおなじとされるのに、流派によって全く異なる動作になっています。

形の技の解釈も千差万別で、もはや継承というよりも独創に過ぎません。むしろ各々が好き勝手解釈するのを想像力の発揮として好意的に評価したりしています。

 

しかし、これは絶対におかしいのです。形を作った人間が居るのならばその人間の想定した運用方法も1通りのみで、かつその人物の運用方法のみが正しいのです。

道家がシャドーで内股を練習しているのを、傍から見た人間が「いや、あれは後ろ蹴りなのだ」など言えば「お前バカか」と思うはずです。

 

するとその唯一の正しい解釈は推定できるのでしょうか?

すなわち比較言語学のように、知的推察の手法はあるのでしょうか?

 

新垣師範はその手法を作り出したと私は思っています。

流派Aのクーシャンクーと流派Bのクーシャンクーとを比較し原型クーシャンクーとも呼べるような形が推定しうる手法です。

 

大雑把に、以下の2点の理解が必要になるかと思います

1つは動作と動作の間を埋める相手の存在

2つは同名の形でも流派によって異なる部分の比較

です。

 

1つ目は、ほぼ全ての形に現れる、両拳を脇に揃えるこの謎の動作の意味を理解するのがもっとも説得力があるかと思います。

(両拳を脇に揃える動作 画像はナイファンチを行う本部朝基

 

ナイファンチは、

肘打ち・拳を揃える・下段払い・鉤突き

と連続します。

 

一般的な解釈では、

肘打ち、相手は消えて反対方向から相手が現れ、蹴りか何かを下段払い、反撃の鉤突き

となっています。

拳を揃える動作については考えないか、相手の腕を巻き取る、という実践性の低い解釈や、拳によって重心の位置を揃える(?)とか、筋肉を目一杯のばす、というような単に身体操作の練習として解釈されます。

 

しかし、動画にあるように無想会の解釈は、肘打ちを入れた相手の頭部・頸部を極めて、下段払いとされる防御の動作で相手を振り回す、としています。

 

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かつて新垣師範が全速でナイファンチを演武した際、全速故に止まらなかったのでこの部分で一瞬相手が見えたそうです。

 

すると、この拳を脇に揃える動作は、全て頭部の抑え込みなのではないか?という推察が成り立ちます。

すなわち、「動作と動作の間を埋める相手の存在」が見えるのです。

 

これを確証付けられるのが2つ目の「同名の形でも流派によって異なる部分の比較」です。

 

ここで一心流のナイファンチを見ます。

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すると、脇に揃える→下段払い のところで、波返しが入っています。

先程の「下段払いとされる防御の動作で相手を振り回す」の際に、カウンターで膝が入れているのでは?と解釈できます。

 

また、この脇に揃える動作は、松林流の一部ではナイファンチにおいて下から掬うような軌道になっています。

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すると相手の頭・首をこの掬うような動作で極めて、下段払いの動作で投げて、一心流のようにカウンターで膝を入れるという解釈が、複数の形との比較によりなされました。

 

これを同様にナイファンチ以外の形でも検証します。

 

例えば、クーシャンクーやピンアン4段、ニーセーシに共通する動作で、

脇に揃える→下段払い→前/横蹴り→肘打ち→最初と反対の脇に揃える→反対の下段払い

→反対の前/横蹴り→肘打ち

があります。

 

これも、一般的には、前述のナイファンチと同様に、蹴りか何かを下段払いで受けて蹴りと肘打ちで反撃、となっています。

しかし、これはナイファンチと全く同様の動きを左右対称に連続でやっているのではないか、と考えられます。

頭を振って蹴り・肘打ち、また首を極めて振って蹴り・肘打ち、というように。

 

このようにして他の形も見ていくと、脇に揃える動作の前後には、肘・蹴りが多いことがわかります。パッサイなどもそうです。

また、諸手突きが来ることも多いです。

これは、捉えた首を捻転させながら放り投げている、と解釈されます。これはローハイ・パッサイに見られます。

 

このように、

「動作と動作の間を埋める相手の存在」

「同名の形でも流派によって異なる部分の比較」

をしていくと、

 

形において

「相手はただ一人、しかも打撃というより肘・膝メインの組技系、分解はできない」

という解釈が導かれます。

 

するとこれが面白いくらいほぼすべての形でも通用するのです。

もちろん、形によって相手が途中でいなくなる瞬間があります。しかし、他の流派の同名の形を比較すると、ある流派の形が欠落した動作を保存している、という場合があり、それらを合わせると、前述の解釈に矛盾がなくなるのです。

 

他にも、「3歩は1歩」「ナカユクイ(沖縄方言:途中休憩の意)」などというような口伝を用いて矛盾を解消することもあります。

 

この手法によって検証していけば、比較言語学よろしく、形の原型が知的に推察できるでしょう。

見た感じの連想で諸手突きだったり、胴体への貫手だったり、脈絡なく突然背後に蹴りだったり、さっきまでいた相手が何故かいなくなったり、急に酔拳の影響が出たり、という反証だらけの理論よりずっと確からしい再現が可能です。

 

無想会では松村宗昆(宗棍とも)の改良した形を沖縄空手の原型として再現・復興・推察しています。